国内はもちろん、ヨーロッパに南米に中東。
日本代表の試合があれば世界中、どのような場所にもはせ参じたウルトラス。
ウルトラスはいったい、いつからどのように闘ってきたのだろうか。
これはウルトラスの中心人物である植田朝日が振り返る、ウルトラス年表である。
1985年
10月
「勝てばワールドカップ」とメディアがこぞって報じた10月26日のワールドカップアジア最終予選対韓国戦。しかし、
結果は完敗。試合後の国立には大量の日の丸が投げ捨てられており、試合後には雨も降り出したため足元はグチャグ
チャに。悲しい気分だった。
1987年
10月
「引き分け以上で五輪出場」とメディアがこぞって報じた10月26日のソウルオリンピックアジア最終予選対中国戦。
しかし、結果は完敗。2 年前と同じ10月26日に敗れたため、日本のサッカーファンにとって、10.26は忘れられな
い日付となったのだ。
1989年
この頃もまだ「サポーター」って言葉はなくて、スタンドで声を張り上げて欧州的な応援を繰り広げるオレ達のよう
な人間は「ゴール裏の新人類」と雑誌などで紹介されていた。
イタリアワールドカップ予選のホーム・インドネシア戦(西が丘)の試合前に、グラウンドに下りてピッチ中央で日
の丸を振り回して警備員に捕まっちゃいました。今だったら非難轟々だったかもしれないけど、この時はスタンドか
ら「いいぞー!」って喝采が飛んだ。この結果、試合開始直後の堀池の先制ゴールを警備室で見ることになる…(前
半途中で解放される)
1990年
1次予選であっけなく敗退したイタリアワールドカップ予選と同じ監督、メンバーで強化意図のわからない南米遠征を
行ったことにサポーター激怒。後にクイズ番組「カルトQ」のサッカー部門チャンピオンとなるカルキン(仮名)を
中心に、横山謙三監督解任を求める署名運動が行われたり。
で、日本サッカーのあまりの情けなさに、この年オレは欧州にサッカー留学を敢行した。
1992年
ダイナスティカップ・アジアカップ共に初優勝
広島アジアカップで日本代表が優勝。試合を重ねるごとにサポーターが増え、日本サッカーが盛り上がりを見せる。
このときオレはドイツから一時帰国して参戦。試合後、地元のチンピラにからまれ「お前、どこから来たんだよ?」
とすごまれるが、「ドイツからだよ!」と切り返すと相手は「ウ、ウソつくな!」と戸惑い揉め事もグダグダに。
1993年
アメリカワールドカップ予選始まる。1次予選では難敵タイ、UAEを下して最終予選進出を決める。
時を同じくしてウルトラスニッポンが日本代表応援歌CD「カンピオーネニッポン」を発売。というよりも、このCD
発売を機にウルトラスニッポンを名乗り始めたのだった。うじきつよしさんと戦友になったのも、この予選からだっ
たはず。
5月にJリーグがスタート。
アメリカワールドカップ最終予選のためカタールの首都ドーハに乗り込む。日本代表はワールドカップ初出場へあと
一歩と迫るが、最終戦のロスタイムに失点し夢破れる。いわゆる「ドーハの悲劇」ってやつだ。
監督、選手らをなぜか批判できないメディアたちはこぞってオレ達を悪者に仕立て上げた。「ウルトラスという名の
妖怪」などとバッシング記 事もあり、カタールから傷心で帰国したオレ達はさらにダメージを受ける。
1994年
日本代表監督にブラジル人のファルカンが就任。日本代表は若手中心のチームとなる。
キリンカップでフランスに惨敗。とにかく強くなりたく仕方なかったオレ達は大ブーイングを浴びせてしまう。チー
ムの土台作りの時期だとはわかっていたのだが、つい…。
そうそう、このキリンカップはアルゼンチンが来るはずだったのに、日本の外務省は麻薬疑惑のあるマラドーナの入
国を拒否ってしまう。ふざけるなー!
アメリカワールドカップが開幕。大会前は「今回は見に行かない!」と公言していたオレだったが、結局、こっそり
と見に行く。そしてバッチリとテレビに映り、バレる。
広島アジア大会。ベスト8で韓国に負けて敗退し、この結果を受けてファルカンが更迭。それにしても大会運営がヒド
かった。お好み焼きは、旨かった。
セリエA、ジェノアに移籍した三浦カズがクリスマススターズ(世界選抜)に選出される。普段は赤黒の横断幕しか貼
られないサンシーロのゴール裏にウルトラスニッポンのブルーの横断幕を猛々しく貼る。
1995年
加茂周が日本代表監督に就任。「世界を目指すには国際経験豊かな外国人監督が必要」と言ってファルカンを呼んだ
のはいったい…
1月
インターコンチネンタルカップ(サウジアラビア)に出場。アルゼンチン、ナイジェリアに惨敗。
2月
ダイナスティカップ(香港)で優勝。韓国との決勝戦開始直前に韓国選手と掴み合いの喧嘩になる。事の発端は韓国
チームがスタンドのオレ達にボールをぶつけてきたことだった。「アイツがボスだぞ!」とオレには集中して飛んで
きた…
6月
インターナショナルチャレンジ(イングランド)出場。聖地ウエンブリーで「ニッポン!」のコールがこだまする。
感涙。
7月
応援歌CD「GO WEST」リリース。
10月
「ドーハの悲劇」と同じ日付の10.28に愛媛でサウジアラビアと対戦。ブルーのフラッグを2002本作成し、スタンド
のサポーターに配布してスタンドを青く染めた。
11月
2002年ワールドカップ開催候補地である日本をFIFAが視察。視察団は観戦に訪れた国立での「鹿島-セレッソ大阪」
戦は各クラブのサポーターが集結してスタンドを盛り上げた。96年6月1日の開催国決定に向けて大きなアピールにな
ったはず。鹿島は近いからたくさんのサポーターが集まるが、関西のセレッソは人数的には厳しいため、「この日の
セレッソを日本代表と考えよう」を合い言葉に他チームのサポーターも集結。
それぞれが「2002」の横断幕を掲げた。オレも東京ガスのシャツを着てセレッソを熱くサポートした。
1996年
2月
カールスバーグカップ(香港)。香港協会のヘンリー・フォク氏はワールドカップ開催国を決める選挙の投票権を持
っているため、「WE LOVE HONGKONG」の横断幕でご機嫌を取る。
3月
アトランタ五輪アジア最終予選(マレーシア)。28年ぶりの五輪出場を決める。約半月にもわたるマレーシアの旅は
大盛り上がり。ホテルに隣接したハードロックカフェで毎晩ハードロック。決勝で韓国に敗れたことは消去。
5月
キリンカップ制覇。ユーゴスラビアとメキシコを下しての優勝だけに、大感激。ほぼベストメンバーのユーゴスラビア
にカズのゴールで勝利したのだ。スタンドは2002年ワールドカップ開催をアピールする横断幕で埋め尽くされる。
これでワールドカップ開催は日本のもの?
5月31日
日韓共催決定。なんじゃそりゃ。
しかし、そうと決まったのであればバッチリ盛り上げましょう。
7月
アトランタ五輪(アトランタ)。伊藤テルのゴールで、なんとブラジルを撃破!
「ザガロやっちゃった」「JAPAN 1-0 BRASIL」の横断幕がアトランタに揺れる。
8月
第1回アジアスーパーカップ(平塚)。アジア・カップウィナーズカップ王者のベルマーレ平塚(現湘南)がアジアク
ラブ選手権王者の一和天馬(現城南一和)とアジアNO1クラブの座をかけて戦った。ベルマーレのサポーター集団
「SUPER WAVES」にウルトラスニッポンやその他クラブのサポーターが加わって大サポート。
10月
アジアユース(韓国)。準決勝の日韓戦では韓国のサポーターとトラブルに。花火を打ち込まれたり。
12月
アジアカップ(UAE)。4強入りが目標だったのに、ベスト8でクウェートに敗戦。
1997年
2月
キングスカップ(タイ)。「大和魂」の大横断幕が登場。が、肝心のチームが魂を出せず、タイを相手にドロー。来月
から始まるフランスワールドカップ予選は大丈夫?
3月
フランスワールドカップ1次予選ファーストラウンド(オマーン)。シンガポール、スリランカ、ドバイなどを経て未
知なる国、オマーンへ。
何もないところだが、治安も良く、いい国でした。入国時にエロ本を持ち込もうとして捕まるやつもいたり。ジェフ
おやじ、中東へ「冷奴」持ち込む。
6月
フランスワールドカップ1次予選セカンドラウンド(東京)。国立のゴール裏に巨大なフランス国旗出現。問題なく最
終予選への進出を決める。
7月
フランスワールドカップ最終予選がこれまでのセントラル方式ではなく、ホーム・アンド・アウェーで行われること
が決定。まあ、本来はこれがあるべき姿なのだが、ちょっと急な展開。遠征の回数が増えるわけだから、お金が…
9月
フランスワールドカップ最終予選(東京、UAE、東京)。初戦をウズベキスタンに勝利、2戦目をUAEに引き分けとい
う無難な滑り出しも、3戦目はホームで韓国に敗戦。ホームゲームでは膨大な量の紙ふぶきが舞う。その紙ふぶきが風
に飛ばされて神宮球場の大学野球や、高速道路をストップさせてしまう。ゴメンナサイ。
10月
フランスワールドカップアジア最終予選(カザフスタン、ウズベキスタン、東京)。初めて足を踏み入れる中央アジ
ア。空気が乾燥しており、炭酸飲料がウマい。監督更迭などもあり、道中はつねにバタバタ。ウズベキスタンでは相
手サポーターから徹底的にビンやゴミを投げつけられ出血者多数。オレも口の中から出血しました。
11月
フランスワールドカップ最終予選(韓国、東京、マレーシア)。「神様 仏様 岡田様」。ジョホールバルでイランを倒
し、悲願のワールドカップ出場。
1998年
3月
ダイナスティカップ(東京、横浜)。完成したばかりの横浜国際競技場。屋根があるはずなのに雨でずぶ濡れに…
6月
フランスワールドカップ(トゥールーズ、ナント、リヨン)。せっかくのワールドカップがチケット問題で台無しに。
3戦全敗、グループリーグで姿を消す。
10月
国際親善試合、エジプト戦(大阪)。新監督フィリップ。トルシエの初采配。前日にバンコクでアジアユースがあっ
たため、この日の午前中に帰国。そのまま大阪へ移動したのでヘトヘトに。
1999年
3月
国際親善試合、ブラジル戦(東京)。強豪ブラジルに完敗。まったく歯が立たず。情けねー。
7月
コパ・アメリカ(パラグアイ)。なぜか伝統のコパ・アメリカに招待された日本代表。パラグアイの首都アスンシオ
ンのスタジアムは相当なアウェー。試合中でも普通に俺たちの荷物が盗まれそうになるし、ションベンの入ったビニ
ール袋を投げつけられたり。怖い怖い。
9月、10月
シドニー五輪アジア最終予選(カザフスタン、東京、タイ)。余裕で予選突破。3年ぶりに訪れたカザフスタンも、な
かなか快適に過ごせた気がする。
2000年
2月
カールスバーグカップ(香港)。久しぶりにキングカズが代表復帰し、テンションが上がる。ところがテンションが
上がりすぎて、カズ登場に爆竹を大量に鳴らしてしまい警備員に捕まる奴も。旧正月って爆竹じゃないの?
6月
ハッサン2世杯(モロッコ)。
9月
シドニー五輪(オーストラリア)。レンタカーでオーストラリアを大移動。
10月
アジアカップ(レバノン)。アジア王者に返り咲く。
2001年
3月
国際親善試合、フランス戦(パリ)。雨の中でボロ負け。セーヌ川が洪水になってしまいそうなほどの雨でした。
5月、6月
コンフェデレーションカップ(新潟、鹿島、横浜)。全席指定で行われた大会。ホームながらもサポートには苦しんだ。
ワールドユース(アルゼンチン)。アルゼンチン国内を高速バスで移動。旅の途中でコパ・リベルタドーレス決勝も観
戦。ボカ・カンペオン。
2002年
5月
国際親善試合、スウェーデン戦。ブルーの紙テープ4万本でワールドカップ前最後のテストマッチを彩る。
サポートソングCD「ULTRAS 2002」リリース。
6月
日韓ワールドカップ(埼玉、横浜、大阪、宮城)。ワールドカップ自国開催という未曾有の経験。日本代表戦のみなら
ず、様々なカードを楽しんだ。
10月
ジーコジャパンの船出。
2003年
3月
アメリカ遠征が中止になったり、ならなかったり、結局中止になったり。航空券のキャンセル料がけっこうかかりまし
たねえ。
5月
キリンカップ、アルゼンチン戦(大阪)。完敗し、なおかつ試合終盤にはタイコの使用を禁止されるなど後味の悪い試
合だった。
2004年
2月
ドイツワールドカップ1次予選、オマーン戦(埼玉)。日本代表戦のスタンドがお祭りのような雰囲気になってしまっ
て、戦う空気からは程遠いものに。ワールドカップ予選だというのに…
3月
アテネ五輪最終予選(UAE)。昨年末に来たばかりなのに、またもやUAEへ。しかも到着時は霧が濃く、隣国のオマー
ンに着陸するというトラブルも。手持ちの所持金が少ないヤツが多い旅だった…
ドイツワールドカップ1次予選、シンガポール戦(シンガポール)。暑い!ちょっと足を伸ばしてジョホールバルにも
行ってきました。今度はあの場所で、自分たちでボールを蹴ってみようかな。
8月
アジアユース(マレーシア)。ジョホールバルでも試合がありました。
9月
ワールドカップアジア地区予選、オマーン戦(オマーン)。7年前に来たときよりも、アウェーな感じ。バックスタン
ドはオマーン人で埋め尽くされる。
12月
応援歌CD「ジンギスカン」リリース。
2005年
2月
ドイツワールドカップ最終予選、北朝鮮戦(埼玉)。8年ぶりの最終予選ということで、一時はゴール裏を離れていた
仲間が大挙して集まってきた。もちろん、サポートは熱いものに。
3月
ドイツワールドカップ最終予選、イラン戦(イラン)。敗れはしたが、イランの旅は堪能。試合後にイラン人が何人か
死亡したと聞いて、大きなショックを受ける。
6月
ドイツワールドカップ最終予選、バーレーン戦、北朝鮮戦(バーレーン、タイ)。バーレーンでは、アウェーながらも
最高のサポートを展開したという自負あり。バンコクでの無観客試合の応援が評価されていたようだが、それよりもバ
ーレーン戦のサポートが抜群に良かったと思う。
ちなみに、暑いバンコクでアイスを食い過ぎてしまったオレは、腹を下しながらの応援だった。
コンフェデレーションカップ、ワールドユース(ドイツ、オランダ)。両大会をカバー。大変疲れました。でも、エン
スヘーデは気に入った!
本大会もここを拠点にしようかな。
8月
東アジア選手権(韓国)。欧州組もいない海外での大会だったため、ミーハー層がおらず男だらけの熱い応援を展開。
韓国との試合では発炎筒を焚き、ヒートアップ。ウルトラスは韓国ではすごく有名なようで、いろんな場所に行くたび
に「ウルトラニッポン!」と声を掛けられる。日韓戦では「ウルトラニッポンシート」というのが設定されていたほど。
ドイツワールドカップアジア最終予選、イラン戦。予選突破は決めているが、1位通過をかけて全力で戦う。
9月
東欧遠征。ラトビア戦、ウクライナ戦(ラトビア、ウクライナ)。意図のよく分からない遠征には行きません。Jリー
グオールスターと重なっており、オールスターに選出された選手は参加せず。なんだそりゃ。応援したい選手に投票で
きないだろうに。
2006年
2月
アメリカ遠征(アメリカ)。野球場での試合で、なんだかよく分からんけど3階席で応援させられた。
4月
2002年に続き、今回も「ULTRAS 2006」のCDを作成。発売記念イベントを六本木ヴェルファーレで盛大に行う。